エゴセントリック座標とアロセントリック座標について-ASDにイラストは描けるのか-

イラストの練習を再開し始めた

 最近イラストの練習を再開し始めた。その要因として、自分自身と向き合い、「好き」の方向性が定まってきたのが大きい。イラストの趣味も大体つかめたため、絵を通して自分の目指す方向性がだいたい定まってきた。何をするにしても、目指すべき場所があるという事実はとても大切なものだ。ゴールの見えないマラソンほどつらいものはない。

しかし、イラストを描く、そして情報を調べる上で、自分の絵にそこはかとない違和感を覚え始めた。確かにプロやTwitterに生息するイラストレーターと比べると、自分はズブの素人である。当たり前だろうと最初は思っていたが、どうしても違和感が拭い去れない。たまにYoutubeで”〇年間でこんなにうまくなりました!”的な文言で投稿者の過去の絵が載っていたりするのだが、それと比べても何かがおかしい。今の自分と同じレベルの絵だ。にもかかわらず妙にしっくりくるのだ。一つ一つの線は雑でも妙におさまりがいい。

何が違うのだろうか…と色々調べていた最中、自分の心を折るのに十分な情報が飛び込んできた。

エゴセントリック座標とアロセントリック座標

 健常者はターゲットを見るとき、他のものや枠といったものとの相対的な位置関係に従ってものを見る。対して自閉症スペクトラム(ASD)の人間は相対関係を無視してものを見るという。正直うまく説明できている気がしないので、ブラウザで検索していただきたい。それの影響で、ASDは字を枠の中に当てはめて書くのが苦手だったり、的にボールを投げたり、まっすぐ線を引いたりといったことが苦手だったりする。

私はこれを知った時、「ならイラストを描くなどASDは到底無理なのではないか」という感想を持った。人の顔を描くときは輪郭の中の最適な位置にパーツを配置しなければならない。まっすぐ線が引けないとイラスト描きとしてはまず論外である。線の終点や始点も正確に位置することができない。

もちろん私はASDである。そして自分がエゴセントリック座標を使っていると思い当たる節がある。書道の習い事は死ぬほどつらかったし、文字の大きさも大きかったり小さかったりする。

 

才能は依然として存在する

 この疑問を持って以降、自分はイラストを続けるべきだろうかと悩むことになる。イラストを趣味にするどころか、趣味レベルにも到達できない可能性が頭にこびりついてしまったからである。絵の違和感を「才能の違い」というあいまいな概念で理解するなら「まあそういうこともあるよね」でそこまでモチベーションの低下につながらなかったかもしれない。しかし、今は「才能」の差が科学的にこうこうこうですよと説明されてしまったような状態である。

一方で、無理に高い完成度を目指さなくてもよくなったということもできる。どうせ健常者には敵わないのだから、そこそこで妥協しようという思考も生まれつつある。また、課題が見つかったのだからそこを矯正することもできるのではないかと思ったが、ASDは先天的な性質で治すことは不可能であり、薬もない。無理だという結論に達した。

 

好きという感情をエネルギーにできるか

 高いレベルは目指せないとなると、それを続けるためには「イラスト製作が好きか」という一点が問題となってくる。「イラストが好きか」ではなく、「イラスト製作が好きか」である。自分の作るイラストが自分の好きなイラストとは別物になる以上、制作の過程を楽しめるかという点が最重要課題になってくる。

たまにすさまじい謎のエネルギーを持っている人間がいる。例えば私の兄だが、彼はギターもそこまで上手くない(自称、自分はギターの巧拙はわからない)し、音楽理論もわからない。しかしギター、ベース、ドラムのすべてを弾き、アルバム一枚とミニアルバム二枚を一人で作ってしまったのだから驚きである。もはや元祖ぼっち・ざ・ろっく!を自称してもいいレベルである。

自分はイラストにそこまでの情熱を傾けられるだろうか。わからない。自分は結果が伴わないかもしれないとわかっていても、イラスト製作を続けられるだろうか。

 

追記

ASDにはASDにはアファンタジアなるものもあるらしい

 もう終わりだよこの脳

②43もアクセスがあった。こんなクソみたいな記事群を見せつけてしまい非常に申し訳   ない